なるべくなら人から好感を持たれていたいものだし、出来ることなら嫌われたくはないもの。
こう思うのも当然だ。
人は他の動物より社会的な側面が強い生き物であり、幼少期から死ぬまでコミュニティで生きていくことがほとんどだ。地域、学校、会社、サークルなどなど。
ひとりはアリだけど独りを感じるのは嫌だ。
だから、自分だけでなく周りにも気を配り、周囲に適応して生きていく。自己中心的で傍若無人に振る舞っているようでは爪弾き者となり、環境の中では生きづらくなるので気配りについては概ね賛成。
けど、何事もバランスは大事。嫌われないようにしようとするあまり、周囲へ適応しようとするあまり、自分を抑え続けたらどうだろうか。それはそれで生きづらく、なんなら生きた心地すらしなくなったりしないだろうか。
挙句、「楽しくないな。なんのために生きているんだ?」とか苦しさや虚しさに苛まれることだってあるかもしれない。
独りになりたくないのは、周りに適応することで安心して生きていきたいため。それなのに、行き過ぎると安心のための処世術で生きていることが虚しくなる。自分らしさを押し殺す。マインドのスーサイド。矛盾だ。パラドックスだ。
そもそも、自分自身は誰も嫌っていないのだろうか。もしそうならスミマセン。
ただ、そうでないなら、自分だって嫌いな人がいるなら、人を好きになることも嫌いになることも等しくあり得ることだと思えないだろうか。特別なことじゃない。自分に向けられるものってなかなか客観視出来ないのは分かっているけど。
誰もが好きな歌など無いのだ。どんな人気アーティストにだって、興味ない人、嫌いな人はいるだろう。
好きがあれば嫌いもあって、合うこともあれば合わないこともある。陽があれば陰があるのだ。
さて、意識の照準をどちらに多く合わせよう。
あなたが生き生きしているとあなた自身が嬉しくて、あなたが生き生きしているとあなたを好きな人も嬉しい。
嫌ってくる人にいくら嫌われないようにしたって、好きになってくれる可能性はどれくらいだ?好きまではいかないまでも、嫌われない可能性は?そういう人って、どれだけ気を配っても結局は何かしらで嫌ってこないかい?だいぶ無理ゲーな気がしないかい?
そもそも、その人から嫌われなかったり、好かれたりしたとして、その人ってあなたも好きになる人なのか?その人から嫌われたとして生きていけないのか?そうじゃないなら?
意識ではスルーしちゃおうよ。別に嫌い合って争う必要なんてない。その人だって誰かにとっては大切な人だ。スルーでいい。
自分を押し殺すことは自分も悲しいし、自分を好きでいてくれる人もなんか悲しいんじゃないかな。自分や好きな人と嫌いな人、自分にとって価値があって大切にしたいのはどっちだ?
この世界で自分が自分らしく在るため、自分の大事な人とバラ色の人生を送るため、必要な気は配る。0か100の極論じゃない。バランスを大事に。
自分を嫌う人も自分が嫌う人も意識ではスルー。傷つけたりはダメ。その人だって、その人自身やその人のことが大切な人がいるんだから。以上。