人生は短距離走ではなくマラソンである。
これはよく言われるような例えだ。人生という大きな括りではなくとも、日常にはマラソン的なものは多い。学校や仕事をはじめ、クラブ活動や趣味、夢など枚挙にいとまがない。
これらを達成するには瞬間爆発的なアクションだけでは立ち行かない。ゴールという形に結びつけるまでの『持久力』が必要と言っても過言ではないと思っている。
そして、この持久力というものがワタシを幾度となく悩ませてきた。あなたには持久力があるだろうか。はっきり言って、ワタシには無い。ちょっと足りない、とかではなく、決定的に無い。とにかく無い。
それは性格とか気質的にもだし、俗にイメージする体力的な意味での持久力も全くない。ワタシが体育の中で1番嫌いなのが持久走だ。それこそ、それを象徴するエピソードがあるくらいだ。
あれはワタシが14歳の時。碇シンジがエヴァに乗って使徒と戦った年齢にワタシは体育祭で持久走を走る羽目になっていた。持久力のない自分がなぜ持久走をやることになったかは覚えていないが、サングラスをかけた髭面の父親から押しつけられた上で「逃げちゃダメだ」と心の中で連呼するシンジ君的な物語の第壱話を飾るほどの葛藤とかは無かったのは確かだ。
体育祭をボイコットするようなワルでなかったワタシは、当然のように持久走のプログラムの時間を迎えることとなる。コースは以下の通り。まずは校庭を1週し、隣のグラウンドを走り、また校庭に戻ってきて1周するというように記憶している。ここでワタシは小賢しい悪知恵を働かせる。
「隣のグラウンドに移ったあと、トイレにサッと身を隠し、グラウンド外周をやり過ごし、何食わぬ顔で校庭に戻れば、楽してクリア出来るんじゃね?」
何とも中学生らしい、お粗末さと可愛げを隠しきれない中途半端な思惑だと思う。
自分的には『ナイスアイデア』という思いを胸にしたためる中、スタートのピストルが鳴り響く。当然だが、この作戦では隠れるところを見つかってはいけない。ワタシはスタートと同時に全力に近い疾走をかます。そんなワタシの好調な滑り出しを実況の生徒もマイクで伝えてくれる。そんなアナウンスを背に気を良くしつつ、ワタシは意気揚々と校庭を後にする。
狙い通りにグラウンドに一番乗りできたワタシはトイレに駆け込む。あとは頃合いを見て出ていくだけ。なんともイージーなミッションだ。シンプル イズ ベスト。
しかし、残念ながら物事はそう上手くは運ばない。全力疾走で苦しくなった胸を落ち着けつつ、ワタシは思った。
「これ、戻るタイミングいつだ?」
そう、わからなかったのだ。戻り時が。
ワタシが身を隠したのはグラウンドの施設内にあるトイレ。そこからでは外の様子がわからない。校庭を全力で駆け抜けたワタシは後続とどれくらいの差があったのかもわからない。そして時計も何も持っていないので時間の感覚もよくわからない。タイミングを間違えばランナーと鉢合わせになる。ちょっと考えれば、とても穴だらけの作戦なのだ。
どれくらい経っただろうか。ワタシは意を決して戻る決意をする。グラウンドには走っている生徒は誰もいない。よし。安心して校庭に戻れる。
安堵の様子で校庭に戻ってきたワタシの耳に衝撃のアナウンスが飛び込む。
「あっ、まだランナーが残っていました。〇〇くんです」
戻った時間が遅過ぎたようだ。何せ入り口には次のプログラムの生徒たちが今か今かとスタンバっているのだ。そんな中にワタシが帰ってきたのだ。
「皆さん。最後まで頑張って走る〇〇くんに大きな声援を送りましょう」
全生徒からワタシ1人に向けられる応援。それは黄色さの欠片もないもの。ダントツのトップで出て行ったはずの男がダントツのビリで戻ってきたのだ。ワタシがあの時感じたもの。あれを羞恥心と言わずに何と言うのだろうか。
声援を一手に受けるワタシにできること。それは、とても必死に走っているように振る舞うことである。ダントツのビリに相応しい様相、愚者になりきることだ。
苦しそうにゴールしたワタシは声援に応えるべく、拳を突き上げる。その様はラオウ、いやロッキーのようだっただろう。もう「エイドリア〜ン!」と叫んでしまっても良かったかもしれない。
え〜。なんの話でしたっけ。そう。持久力の話だ。ワタシには持久力が無い。
ワタシは自分の性格を真面目な方だと思っているが、コツコツとか地道というのがとにかく苦手だ。続かない。長期目標とかも致命的に立てられない。生真面目の端くれにも置けないヤロウだ。
この気質が原因で、生きづらさ的なものを感じることも多い。長期的な視点、持久力があれば、もっと素敵な結果に結びつけられたことが多いのではないか、とも思う。
かといって、一獲千金を狙ってギャンブルに身を投じるとか、そういう刹那的で破滅的なアクションをすることは一切ない。リスクは避けたい。損失回避の法則の王道を歩く男だ。
ワタシはコツコツができない生真面目キャラなのだ。なんとも中途半端だと思う。このキャラゆえに劇的なエピソードもとっても生まれづらい。感動的に成功したとか、苦しさを乗り越え何かを掴んだということも無ければ、絶望的に失敗した、というエピソードも無い。
ただ、今回『適応障害』となった気質的な部分として、持久力が容疑者のひとりに挙げられると断定している。
持久力があれば、環境や仕事にも慣れていく過程を経て、仕事上の成果に繋がったかもしれない。もしくは、頑張り過ぎて寝られないとか食べられない、笑えないとか、一線を超えてうつ状態まで行っていたかもしれない。
しかし、どっちにもなる前に音を上げたので、箔が付くような劇的なエピソードにはならなかった。成果も掴んでいないし、寝られているし、食べられているし、笑えている。寧ろ、劇的な症状や苦しみなき挫折なのが辛いと言わざるを得ない。
けど、仕方ない。それがワタシなのだ。ドラマの主人公を張るほどのエピソードは生まれない。村人Aくらいのエピソードかもしれない。それでも村人Aは村人Aという人生の主役だ。村人Aなりの葛藤、成功や挫折がある。ドラマの主人公にはあるものが無いなりの人生の謳歌があったって良いはずだ。
自分がそうなら、それを受け入れて、それすらも愛したい。そんな村人Aだからこそ、誰かに響かせられる何かがあるんじゃなかろうか。そう思いたい。
同じようなところでモヤモヤしている人が「これでもイイんだ」「持久力無くても大丈夫だ」「劇的な苦しみがなくても、それを辛いって言っていいんだ」とか思ってもらえれば御の字だ。
響くかもしれない、そんなあなたに向けて、これからも発信していこうではないか。何かをしていこうではないか。それが自分を全うする、ということな気がしてきた。
さて、それはどんな形なんだろうね。自分との向き合いは続く。