このめちゃくちゃ理不尽で不条理で不公平だらけの世の中で唯一誰にでも平等に与えられたと言えそうなもの。それは時間だろう。
 1日24時間。1年365日、ときどき366日。ベルトコンベアのように全自動で止まることなく進み、過ぎ去っていく。嬉しかろうが、腹立たしかろうが、悲しかろうが、楽しかろうが、皆同じ。

 約2ヶ月の休職を経て、働かないこと、たっぷりの睡眠と日光浴や散歩、読書やブログ執筆が日常となり、すっかりと板についた。はずだった。
 8月から復職し、気がつけば1ヶ月が経過し、なんの断りもなく、いつの間にか9月になっていた。

 出勤時のエレベーターでのドキドキ感といった可愛げのある復職初日のちょっとした気持ちの高揚感などどこ吹く風。ベッドから連れてきた眠たさをバッグに詰め込んで、会社のビルのエレベーターに乗り込む時の気持ちは最早シームレス。
 2ヶ月前の非日常は今日の日常である。

 この世の終わりと思うほどの悲しみや苦しみ、怒りさえもミルフィーユのように時間の層を重ねられるとマイルドになり、遂にはうっかり乗り越えられてしまったりもする。全部とは言わないけれど、大体そうなる気がする。
 心を引き裂いたような事実が消えるわけではない。でも気持ちは、無かった時のような軽やかさを取り戻していってくれたりする。
 最初はキツく感じていたことも徐々に慣れ、そうでもなくなってくることもある。いずれ普通レベルの体感になってしまったりさえする。
 まぁ、喜ばしいことだと思う。

 これは何なのだ。

 鈍化だ。
 「時間が解決してくれる」っていうのは、詰まるところ鈍化なのだ。
 ネガティブなことが鈍化するのは個人的には大歓迎。けど厄介なのは、鈍化はネガティブ限定のキャンペーン的なものではないということ。気を抜くと、ポジティブなことも平気で鈍化するのだ。ここまで来ると有難迷惑だ。

 もう死んでも良いと思えてしまうほどの幸せでさえも、時間が経つと鈍化し、平気で意識から無意識に変わっていく。慣れて普通、当たり前になる。感じる有り難みも減る。
 でも、有り難くないわけではないので、失ったりすると超絶苦しい。ハンパない喪失感に苛まれるだろう。

 幸せはガムではないので、いくら噛んだって味自体が無くなるわけではない。味気なく感じるのは、いつだって自分のせいで、意識を向けずに惰性で噛み続けるから、あるはずの味に気づかないだけなのだ。

 世の中、不満や嫌なことも多いが、そんなものは時間が鈍化させてくれる可能性が高いので、そいつらに意識を向けている場合ではない。
 放っておいたら時間が勝手に鈍化させてしまう、今ある幸せ的なモノに意識を向けて、味わったほうがお徳なのだ。

 そんなお徳用の人生を歩みたいものだ。