せっかく生きているからには、自分の軸とか想いがあるならば、それを全うしていきたいと思う、今日この頃。とは言っても、社会で生きていく以上、聖帝でもない限り「引かぬ、媚びぬ、省みぬ」というのはさすがにやめた方がいいだろう。ワタシはなにも傍若無人を推奨しているわけではない。あくまで、配慮は良いが過度な遠慮はどうなのよ?っていう話。

 自分の人生において、当事者は自分であって、立ち上がるのもいつだって自分だ。

 ただ、疎ましく思ってなのか、他人のことをとやかく言う人というのは、いつでもどこでもいるものだなぁ、と感じる。「あの人のこんなところが良くないと思う」「あいつのああいうところ、どうなのよ」みたいな感じなのだろうが、半ば難癖なんじゃないかと思わざるを得ないものがある。正直、これが気にかかってしまうと、どうにも足を引っ張られる。でも、まぁ自分に向けられたら気になりがちだよね。

 だからこそ、それが自分にとって足を引っ張られるに足るものなのかはしっかりと考えたいところ。

 だいたい、ああだこうだと言ってくる人は、どの立場で言ってきているのだろうか。こちらの振る舞いによって、何か直接的な損害を与えてしまったのなら、それは省みて素直に謝った方がいいだろう。しかしながら、そうでないもの、直接的な被害が無いのに勝手に相手がイラついていることに関しては、受け止めるかどうかは一旦考えた方がいい。
 こういうのって謎に正義ヅラが前面に来ていたりするので、油断すると真に受けそうになるので気をつけたいところ。言っている当人は100%正義のつもりだったりするので表現もパワフルなことが多い。

 だが、ちょっと待ってほしい。本当にそれは真っ当か?
 その根っこには自分の不足感や不公平感などが無いだろうか。「自分はこんななのにお前が〇〇なんて不公平だ」みたいな。

 そして、それを「モラルとして」とか「常識的に」、「あなたのためを思って」や「良かれと思って」などと見栄えの良いヴェールで覆ったりする。あくまで個人的な『不満』ではなく、訴えは真っ当なものである必要があるから。自分の意見には賛同者がいなければいけないから。決して、言っている自分が爪弾き者になってはいけないから。

 自分とか生活に不足感とかがあったりすると、他の人が羨ましく思えたり、それが進むと恨めしく思えてきてしまうのかもしれない。それで相対的な比較によって自分が損している気持ちになったり、幸せに思えなかったり。
 しかしながら、自分はひとりだが残念なことに他者はごまんといるので、そんなことをいくらしたところで本当は何も報われないのに。ただ、自分が真っ当だと信じ込み、そこに気づけないことが多いから、永遠に繰り返されるもぐら叩きなのだ。

 もし、自分にこういうものが向けられたら、をれは受け取る必要はないと思う。何せこちらの問題ではなく、そう感じる相手に鍵があるのだ。
 喰らったら嫌な気持ちになってしまうと思うけど、心の中で「うるせぇ」とか「ほっとけ」とか思って、自分を全うした方がいいと思っている。前述の通り、こちらの問題ではないので、そこを相手に合わせたところで、また別のことでも疎ましく思われたり、言われたりするだろうし。キリが無い。

 あと気をつけたいのは、何より自分がこういうことを感じたり、言うようになってしまわないこと。
 自分に直接の損害が無いのに、相手の何かが気に食わなかったり、疎ましい気持ちが沸いたとしたら、それは自分の中の不足感から来ている気持ちじゃないのか?って考えたい。
 もしそうなら、余計なお世話をしている場合ではない。自分の人生を潤わすため、誰かをどうこうじゃなくて自分自身が立ち上がる時だ。

 自分の人生の主役であり、当事者であれ。

 追伸:SUPER BEAVERの『小さな革命』のワンフレーズと、ヴォーカル:渋谷龍太さんのエッセイ『おかわり』から自分なりに考えを広げ、深めてみた内容でした。