好きなものだけに囲まれていたい。好きなものを食べて、好きな服を着て、好きなものを見て、好きな歌を聴いて、好きなことをして、好きな人と過ごす。そんな毎日を送れたら最高だ。
ところがどうだい?
嫌いなものを食べなきゃならない時があったり、着たくない服を着なきゃいけない時があったり、好きでもないものを見たり聴いたり、やりたくないことをやらなきゃいけなかったり、嫌いな人と時間を共にしなきゃならなかったり。大体の人には余裕でこんなことが降りかかってくるだろう。
嫌いなものなんていらない。やりたくないことなんてやりたくない。それはそうだ。
だったらそれらは不要なのか?
全然ウエルカムじゃないんだから、自分にとっては無くても困らないだろう。その方が心穏やかだ。
まぁ、それはそうなんだ。それは間違いないんだ。だけど現実問題、そんなファンタジーな展開は望み薄。だったら、ノーサンキューなそいつらに自分にとっての存在意義を見出して、少しは軽くしたいものだ。
嫌なものがあるから好きなものがより際立つ。それは確かに言える気がする。相対的な比較が生まれるかららね。
自分にとって嫌なものの存在意義はスパイス。
SHAKARABBITSの『MONSTER TREE』という曲に以下の歌詞がある。
「愛しているもの全て 嫌いなものなんかも必要だ 自分失くすよりも」
全部が好きなものだったら、「好き」を自覚することすら無いかもしれない。好き嫌いって概念自体が無くなる? それってマイルドな不幸なのかも。
ワタシは仏でもなんでもないので、「嫌いなものにも感謝する心を持とうとか」「感謝できるところを探そう」なんて思えないことは言わない。出来る人はやれば良いと思う。ザ・人間な自分には無理です。
感謝どころか許容もできないけど、自分の「好き」を際立たせるために自分の人生に存在価値があるんだと認識だけしておくことにする。ただし、いくら価値があったって媚び諂ったりは絶対にしないぞ。
『MONSTER TREE』の歌詞の続きではこうも言っている。
「苦しみと幸せを感じながらただ歩いてく そして素直になれればいい」
そう。苦しみも幸せもどっちも感じて、自分らしく素直に好きも嫌いもはっきりすればいい。