まるで朝かのように目を覚ます。携帯電話を点灯するとディスプレイに表示された時刻は深夜3:20。眠りについてから3時間くらいだろうか。
エアコンのタイマーが止まったことによる寝苦しさからだろうかと首筋に手を回すが汗ばんでいる様子はない。とはいえ、快適という言葉ではお世辞となる室内の空気に、起き上がってエアコンのスイッチを入れる。
これで2日連続だ。再びベッドに戻るも、すぐに眠りに戻るのは困難そうだ。妙にスッキリした頭でうんざりした気分になる。
適応障害診断での休職も3週間が経とうとしている。残りの休日は10日ほど。仕事から離れ、心と身体は軽くなり、穏やかな日々を送れている。
その間、適応障害に関するもの、カウンセリングに関するもの、メンタルに関するもの、生きる意味を見つける心理学などの本を読んだ。
途中に同僚が薦めてくれたリリー・フランキーの『美女と野球』という程よいくだらなさのエッセイを挟みながら。同僚はなぜかトイレで読むことを薦めてきたが、ワタシはそれには従わずスタバで読んだ。うん。トイレで読むのがふさわしい本だと思った。
話を戻そう。状況への適応に障害を起こしたので、今はストレスの対象から離れて回復しているが、そのまま戻れば、また適応に障害が起きるだろう。色々と本を読んで思考を強化しても、まだ感情では不安なのかもしれない。復職が近づいてきて深層心理がザワつき、寝ている場合じゃない、と夜中に起こしているのかもしれない。いい迷惑。
なんにせよ、適応できるようになるには、そもそもなんで適応できないんだっけ、というところを突き詰めてみようと思った。ちょうど『精神科医が教える 聴く技術』という本を読了したばかり。自分の声、気持ちに耳を傾けようじゃないか。どうせ寝られないのだ。いくらでも付き合ってやろう。ワタシは頭の中で話しはじめる。
始めはクリニックでも話したようなことが語られ始める。そのまま思考や感情の流れが止まらないよう、頭の中の聴き役の自分が受け止める。なぜ、自分がそう感じるのか、ワタシは思い浮かんだこと、言葉をそのまま話し進める。思いの理由とともにそのきっかけとなるエピソードが頭の中に思い出されてくる。忘れていたようなものまで沸き上がってくる。それは『普通』とは違う家のエピソードだ。
最初に言っておくがワタシは肉体的虐待を受けていた、とかそういうセンセーショナルなものはない。父とは別居しており、のちに離婚した。母子家庭というヤツだ。ただ、そういうのを抜きにしてもやっぱり普通ではなく、ちょっとサイコだと思う。
幼少期のワタシは、家の中で過ごしていい空間が制限されていた。記憶が曖昧だが、基本的に寝室のみだった気がする。そして学校が休みの土日などは外出することが禁止されていた。友達と遊ぶなどが許されていなかったのだ。理由は「汚くなるから」だったと思う。
外出から帰宅したら風呂に入らないと家に上がることが許されなかった。そして、風呂に入っていい時間は親の家事が済んだ後。それまでは家に入れなかった。最初に住んでいた家は玄関が広めの造りで、風呂に入るまではそこで過ごした。
休みの日に外出してはならなかったのは、外出することで洗濯する衣類が増えるから、だったんだと思う。節約ということだったのだろうか。「金がない」が母の口癖だった気がする。
疑問に思わなかったのか? 学校に通って友達ができればウチとの違いは当然認識する。ただ、物心ついたときからの生活習慣であったため「ウチはほかと違うんだな」とそういうものなんだ的な認識に落ち着いていたと思う。ドラえもんだって押し入れで寝るんだから、玄関で過ごすということもあり得るのだろう、という感じ。
もちろん、もっと自由に過ごしたかったし、土日に友達とも遊びたかった。けど、絶対として君臨していたルールに対して争うことは当時の自分にはできなかったのだと思う。「言うとおりにしないと生きてけないよね」的な。
全く反抗しなかったわけではない。むしろワタシの性格の憧れは真面目というより、アウトロー的なところにあるので、もちろん口ごたえをしたこともある。そうなったとき母は、今の生活を維持するため、子どもを育てるため、如何に苦労して働いているかを嘆いた。「アンタさえ生まれていなければ、とっとと自由になれていたのに」という王道のセリフもいただけたこともある。これには「勝手に産んでおいてなんだよ!」とはならずに、ちゃんと罪悪感を植えつけた。
捨てられたら生きていけないぜ、という恐怖があったのかは思い出せないが、とにかく親の顔色を伺っていたんだと思う。自分の存在は基本的に母の足枷、マイナスであり、迷惑をかけず、悲観させず、親の思い通りであることで存在が許される、といったように、自己評価の前提として、条件付きの存在という価値観が形成されたのかもしれない。苦しくてもちゃんとしていないと価値が無い、みたいな。
愛情が無かったわけではないと思う。それだったら、もっと酷い扱いだっただろう。母の中での葛藤があって、自分がコントロールできるところをコントロールしてバランスを保っていたんだと思う。
あと良かったのは母が働きに出ているときは自由だったということ。妹の面倒を見ておくというミッションはあったが、しっかり小遣いももらっていたし、友達とも遊んだ。ただ、母の言いつけは守っていたし、宿題をサボることもなかった。母のルールの中での自由であり、基本的に真面目で優等であったと思う。このあたりが真面目に徹するわけでもなく、アウトローになりきるわけでもない、どちらにも振り切れない中途半端な小ズルさに落ち着いてしまったところかもしれないので、残念といえば残念。
中学に上がる頃には、ちゃんと反抗期をむかえられた。家での謎の生活スペース制限にも異を唱え、他の家では当然の『普通』を勝ち取った。マイルドなアウシュビッツ生活と無事におさらばできた。好きなように出かけ、風呂に入らなくともベッドにダイブした。
めでたし、めでたし。とはならず、思い出されることも無くなったこれらのことが、今でも影を落としているのだと感じた。
本当はもっとやりたいように、もっとポンコツに、もっと自由にいきたい気質なのに、周りとか世間とかを伺い、適応しないといけない、という葛藤がめちゃくちゃストレスになるんだと思う。自由に振る舞っているときも「本当に良いのか?」と謎に勝手に気を遣っている。自分が自分を100%で認められてないのだろう。なんとなく罪悪感に囚われているのだ。未だにコドモなのだ。
このあたりをうまく昇華させ、囚われを手放していくことで、「まぁ、いいか」が増やせて、もっと軽やかに、適応しやすく、生きやすくなっていくのかもしれない。
今夜はちゃんと眠りたい。
休職はつづく。