「目標を持ちましょう」「5年後、10年後にどうなっていたいかイメージしましょう」
こういうことってよく言われる。会社とかに属していると特に。評価面談とかキャリア面談とかで向き合わされる質問。未来のビジョンとかは入社面接の常套句として有りがちだ。社会人としての基本と言わんばかり。
この「目標を持つ」「未来のビジョンを持つ」というのが、ワタシはどうにも苦手だ。苦手を通り越して、もはや嫌いな気さえする。ハッキリ言って性に合わないのだ。
だって先のことなんて分からないじゃん。企業に属していても希望の部署に配属されるかわからないし、「ジョブローテーションだ」とか言って興味ない部署に異動になるかもしれないし。そもそもの興味だって変わるかもしれないし。「優秀なプロフラマーになるぞ!」と意気込んでいてもチャットなんちゃら的なAIが出てきちゃってお株を奪われるかもしれないし。
断っておくが、これは良いとか悪いとかの話ではない。いや、悪いことは無いのだろう。目標やビジョンを持って、現状とのギャップを認識し、それを埋めるべく研鑽していく。素晴らしい。
素晴らしいとは思うのよ。ただ、好きじゃないのよ。設定した理想とのギャップを埋めていく、っていう感じが。
理想があって、でも今はそこじゃなくて、ってなると、理想に辿り着くまで常に不足しているって前提になる。レベルが上がって成長を感じれば嬉しかったり満足感があったりするだろうけど、足りていないっていう前提が何とも言い難い。自分の気質上、常にマイルドな不足感に苛まれそうでハッピーでいられない。
異世界への転生やドラゴンボールで生き返ることがないとすると、生まれてから死ぬまで一度の人生。楽しく生きられれば、それでワタシは良い。
楽しそうなこと、面白そうなことはやりたい。目標やビジョンに目掛けてやっていくというより、1歩ずつ進んだ先に未来があるイメージ。軌跡が奇跡になったら良いな、っていう。
成長するってことでは、現状の自分に足していく、積み上げていくことに変わりはないが、理想までのマイナスを埋めるのか、今の自分にプラスしていくのか、捉え方の違い。自分は後者の方が楽しめやすい気質というだけだ。
当然過去には目標を持ったりしたこともある。(今も仕事上、目標を設定することは形の上ではありますが)ただ、達成までの道中、変に結果に固執したり執着してしまったりして、いやらしさが出たし、結果に結びつかないとイライラしたりした。
今はなるべく道中を楽しくやって、結果に結びついたら尚良し、というプロセス至上主義。もちろん、だからと言ってイライラすることが無くなったわけじゃないけど、気負いは減った。
改めて言うが、目標や未来のビジョンを持つことが良いとか悪いとかの話じゃない。それらを持てて、そこに向かうのを超楽しめる人はそれが何より。何ならそう出来る人を羨ましいとさえ思う。ただ、そういう人はそれに向いていて、残念ながら自分はそうじゃないっていう話。
そして、それが性に合わないからって絶望することはないんじゃない?って話。性に合わないということにどこかのタイミングで降参し、受け入れて、別の捉え方を探せばいい。
自分の人生は死んだら終わりでコンテニューは無いし、楽しや人生の責任は社会も国も持ってくれない。社会に貢献するにしても、苦しみながら出す成果より楽しみながら出せる成果に越したことはないと思っている。
「そんなこと言ってられない」という人がいるのも、「現実が変わるわけではない」というのは百も承知だが、どうせなら自分で起こせる範囲で自分に小さな革命を。