ワタシには好きな音楽があって、好きなアニメや漫画、好きなドラマや映画があって、好きな小説があって、好きな服があって、好きな食べ物があって好きな人がいる。
そこにはワタシが感じている価値があって、同じように価値を感じる人は同じく好きなのだろう。でも、価値を感じていない人にとっては、同じ対象でもどうでもよかったり、合わなかったら嫌いだったりするだろう。
ワタシという対象においても、誰かにとっては価値があって好まれ、必要とされているだろうし、価値を感じない誰かからはどうでもよかったり、嫌われているだろう。
それは「そういうもの」っていうだけだ。
一方にとっては価値であり、一方にとっては価値にはならないこともある。
自分が価値を感じているものが、誰かから軽んじられたり否定されていたら、悲しかったり寂しかったりすることもあるだろう。人気があれば誇らしい気持ちになるだろうけど、人気がなければ何処かしらソワソワしたり、表立って好きと表現できない恥ずかしい気持ちなんてものを抱いたりするかもしれない。
ただ、そんなものは自分が感じた『価値』にとっては、きっとどうでもいい話なのだ。それで、自分にとっての価値が揺らいだりすることもないだろう。
そして、自分の価値。
自分の在り方での振る舞い、成果が必ずしも自分以外の評価軸の価値とマッチするとは限らない。それは人もコミュニティもそう。
他者からの評価、会社や学校での評価。その価値基準に合った成果や評価。評価に値する成果を出すことはソコにとっての価値となるのは確かだ。
他者から評価されない時、コミュニティでの成果、評価が芳しくない時、自分が自分に感じる価値も低くなってしまうかもしれない。「自分なんて」と無価値感を抱くかもしれない。
そんな時に大事にしたいと思うのが、自分が自分の価値基準にとって価値ある在り方をしているかどうか、って見方。
他者の評価軸、価値基準に寄せて成果を出したり評価されたり、っていうのもあるだろう。自分の価値基準と気持ちの折り合いがついての結果なら喜ばしい。
もし、そうでないなら?
自分を押し殺したり、自分の価値基準と合わないと思いながらのプロセスだったら?
楽しくない気持ち、苦しい気持ち、味気ない気持ちを伴う日々だったら?
そこで得られる達成感や安心感と自分の価値基準を天秤にかけた時、どっちが重いのか。
自分の人生、自分の命、自分の時間。
他者からの評価とかはどうしてもあるんだけど、それはそれとして、少なくとも自分の価値は自分の軸でもちゃんと感じていたいものだ。