
人の価値ってなんだろう。
「生きているだけで価値」って言うし、そりゃそうなんだろうけど、そんな『前提』レベルだけではソワソワしちゃうことだってある。
そもそもその言葉、困ってる人に対して“とりあえず置いとくテンプレ”みたいになってない?と思ったりもする。
じゃあ、自分の価値って、どこでどう測れば納得できるんだろう?
2024年の6月。
適応障害での約2ヶ月の休職。
(その時の話はコチラ)
夏真っ盛りの8月に、たっぷりのリフレッシュで社会に復帰したワタシは、メンタル的に飛ばし過ぎないようセーブしながらマイルドな日々を過ごそうと努めていた。
最重要タスクは、なんと言っても「適応すること」。
むしろそれ一択。
仕事である以上、なんやかんやと達成すべき目標とかあるけど、そもそもフェードアウトしたら意味がないわけで。
一度膝をつくと、そんな『フツーの人』なら前提レベルのことすら目標になる。
復帰当初は『働かない日常』からのギャップでの非日常感もあったが、人は慣れるもので、『働く日常』として適応していった。
素晴らしい。
当たり前の話をするが、職場には“自分じゃない人たち”がいる。
性別、年齢、性格もバラバラで、同じ部署だって職位やそのときの状況や心の持ち様で『同じ』なんて何一つない。
『適応』というのは、そのバラバラの中で共存するってこと。
復帰して就業が日常になった中で、自分の全部が休職前に戻るってわけじゃない。
少なくともワタシはね。
特に「不適応リスク感度」っていう謎センサーが鬼のように敏感になってた。
『違う』のが前提で、自然で、当たり前なのに、例えば自分の考えや言葉に向けられる同意以外の反応に、以前よりやけに神経がすり減る。
違いは違いでしかなく、どちらもフラットなのに、頭は勝手に”否定”の類へ脳内変換。
「マジ、自分なんてここにいる価値無いんじゃね」
“無価値感”という名のゾンビが、情緒の裏路地を徘徊してくる。
根拠はゼロ。
でも気配だけはバッチバチにリアル。
我ながらクソダサい感覚だ。
頭ではわかるんだけどね。
けど、感情は合理的じゃないもんで。
自分に無価値感を匂わせる。
この「無価値感」ってやつ。
正体はたぶん「受け入れられたい」っていう、切実でちょっとめんどくさい願望なんじゃないかって思う。
そんな願望が無ければ、自分の価値とかウダウダ考えない気がする。
誰とも考えを違えたくないなんて幻想でしかない。
誰からも必要ないと思われたくないってことは、裏を返せば「誰からも必要とされたい」ってことで。
それって、冷静に考えるとめちゃくちゃ身勝手だし、恥ずかしいくらいにジコチューだ。
自分だって他人を「この人ちょっと無理」って思うことあるのに、 自分だけは全方向OKで愛されていたいだなんて、どんでもなく厚かましい夢だ。
それに気づいて、自分のそのダサさにまた凹むっていう無限ループに突入。
ぐるぐるぐるぐる堕ちていく。
どうしたら這い上がれる?
きっと、「受け入れられる」とか「受け入れられない」とか、そういうのを手放せたとき、自分の価値がどうだとかどうでもよくなれる気がする。
たぶんね。