誰かの正解は誰かの不正解で、
誰かの正義は誰かの敵で、
誰かの好きは誰かの嫌いなこのご時世、
何かを表現、発信する時点で賛否はあるわけで。

かく言うワタシも言葉を発する以上、必ず賛否の対象になる。
それはそれで良いと思っていて、
個人の価値観なんて多様性の根源みたいなものには素直に降参である。

好意的な感情を抱いてくれる人はこちらも好意的な感情を持つような人だろうし、
嫌ってくるような人はこちらも嫌いなタイプなことがほとんどだろう。
相性が悪い相手は、そっとしておけばいいだけのこと。

前述の通り、個人の価値基準に基づく感覚なので、
各々が心の中で思う分には全く問題ない。
ただ、好き嫌いと良し悪しを履き違え、
自分の不快にごもっともそうな理由をつけて、
良し悪しの物差しで訴える人を残念ながらたまに見る。
(自分ではそれに気づきづらかったりするので要注意。
ワタシも気をつけたい。他者からは恥ずかしく見られるから)
これはマジで相手にする必要が無いと個人的に思っている。

今の時代、「賛否」の中の声の大きい「否」がすぐに炎上を生む。
「賛」があるにもかかわらず、「否(火)」消しをせまられたりする。
もちろん「悪意を持って意図的に傷つけようとするもの」など
本当に消したほうが良いものもあるが、声の大きいメンドクサイ人たちの意向に、
消す方も面倒臭いと思って消しているものもあるだろう。
おかげで「賛」のある毛羽立ちは刈られ、
ツルンとした味気ないもので埋め尽くされそうになる。

没個性とか多様性とか言っておきながら、気に食わないものには大きな声を上げる。
それ即ち、口うるさい人たちの居心地のいい世界というだけな気さえする。

「天国に行く時は手ぶら」という悟りを開きかけているワタシは、
執着や固執で守るものもないので「否」に囚われすぎないメンタルを目指している。
(そりゃ人間なので「まったく気にならない」になることは無いのだが)

「賛」を生むなら、「否」から何を言われようが(意味の分からないことなら)相手にせず、
青い空でも見上げて気を取り直し、「賛」への価値提供をしようと思っている。
ワタシはみんながそれで良いと思っている。
「否」を恐れて尻込みせず、自分が価値提供できる相手にしっかりと「賛」を届ける。
それが自分らしく全うするって気がする。

好きも嫌いも溢れるのが、当たり前に自然な世界じゃないか。

これはあくまでワタシの個人的な意見であり、当然異論も認める。
(何なら半年後には言っていることが変わっていることだってあり得る)
だって昔から思想は個人の自由だし、今は多様性の時代だ。