
最近、セルフ・コンパッションだとか、そんなような本をいくつか読んだ。
自分で自分を救う的なヤツ。
「Too muchな世界でも自分のテイストで生き抜く」
Candy Blazeという曲の一節のように在るため、改めて思ったこと。
今回はそんな話。
ワタシは起きている間、絶えず思考や言葉が頭の中を駆け巡っている。
人との会話中とか何かコンテンツを見聞きしているときとかも浮かんできた言葉や思考に持っていかれがち。
アタマの中のことだから、他の人も同じかどうかはわからないけど。
外に発する言葉は言わずもがな、このアタマの中の言葉もめちゃくちゃ大事な気がする。
だって、コイツ次第でポジティブだとかネガティブだとかのメンタル的なことはもちろん、マインドや信念なんてものも大きく左右されるのだ。
そして、幸運でもあり厄介なことでもあるのだが、これは事実や現実とはイコールではないってことだ。
同じ現実に対しても、それをポジティブに感じる人もいればネガティブに感じる人もいる。
ピンチがチャンスなのかバッドエンドなのかは受け手次第ってわけだ。
そこで言うと、ワタシは悲観的に捉えがちで、そっち方向の言葉が自動的に浮かんでくるタイプ。
肯定的なものが湧き上がってくるなら有難いなのだが、残念ながら反射的に出てくるのは反対のもの。
まぁ、ワタシの人生の中で発達してきた脳のサバイバル機能なのだろうけど、そのおかげで現実をハードモードに設定しがち。
ワタシにとって心理的安全が低い状態を乗り切ろうと、四苦八苦してくれた結果なのだからその点ではとても有難いのだろうけどね。
自分を損ねたり、傷つくリスクを回避すべく浮かんでくる思考や言葉たち。
それは「逃がす」っていう優しさなのだろう。
けど、それが現代社会で普通に生きるのさえもToo muchに感じさせている側面もある。
まるで自分の免疫細胞に傷つけられて殺されるみたいだ。
何度も何度も何度も何度も浮かんでくるようなことなので信念レベルでハードボイルドされていく。
反射的に浮かんでくるもんだから、さも真実に思いがちだけど、前述の通り、事実とイコールというわけではなく、所詮は自分の中での意味づけに過ぎない。
だからこそ、そこにワンチャンが隠れている気がする。
事実ではない、ってことに気づくこと。
それが第一歩で、そこで立ち止まって「ちょっと待て。ホントにそうか?」って改めてフラットに思考してみる。
そうやってちょっとずつ、凝り固まったものを解きほぐしていく。
正直、楽観的やポジティブな受け止めが板についている人を羨ましいと思ってしまう。
そういう人は自分より幸せな世界線で生きてこられたのだろう、って。
それ以外にも、生まれながらの気質やリソースもあると思う。
そうではなく、厳しい状況でも、たくましい意味づけをして、振り立たせて行動して、良い経験を勝ち得て、しなやかな思考を積み立てた人もいるだろう。
気質やリソースを持ち合わせていない自分には、この道しかない。
結局は自分次第。
無意識レベルで自分にかかるアタマの中の言葉。
それはそうと、意識的に自分にかけるアタマの中の言葉。
自分が自分と一番いるパートナーってことなので、どうせなら自分にかかる言葉や思考も、自分のテイストで生き抜く力になるものが良いな。