
今年も6月がやってきた。
身体が重すぎて会社に行くために起き上がれず、
適応障害診断により約2ヶ月間を休職した、あの6月から1年が経った。
仕事に行くことが日常だったのが、行かないことが日常になった。
たっぷりの静養と充電をし、8月から復帰。
めでたし、めでたし。
ということで幕を閉じた適応障害編。
物語ならそこで終わり。
しかし現実は続く。
一度膝をついた人間がその後どんな感じなのか。
せっかくなので、エンドロールのその先を話をしようと思う。
8月の復帰から10ヶ月。
遅刻も欠勤もなく働き続けている。
フィジカルは異常なし。
仕事に行くことが、また日常になっている。
何より。
では、日々順調ということなのか。
残念ながらそうとは言えない。
新たな敵を対峙している。
それは『空虚感』と『虚無感』である。
仕事に対して、とかそんなレベルじゃなく、生き方に対して拗らせ始めてしまった。
ベジータを追いやったら宇宙の帝王フリーザが来た、くらい大物。
生き方への適応障害ってあるの?
今やテンションの基本ラインがダウナーって感じ。
そして「人生ハッピーだぜ、イェイ!」みたいになることが基本ない。
楽しいとか感じることが無いわけじゃない。
着たい服を着る時とか好きなものを食べたり、観たり、聴いたりするとかはプラスの感情になる。
ただ、ヒャッハー!みたいなことはない。
THE YELLOW MONKEYとSUPER BEAVERのツーマンライブに行くという、自分の中でめちゃくちゃヤバいことも嬉しくはあるが、どこか淡々とした心持ちだったことが、それを物語っている。
空虚感、虚無感が大きくなると気分が酷く沈む。
「空虚」「虚無」なのに「大きい」というのは意味不明な表現だが、息を止めて空気が無くなって圧迫されるような苦しさと似ているのかもしれない。
ちなみにこの状態の時にSUPER BEAVERを聴いたらどうなるか。
答えは、どうなるか以前に聴けない状態となる。
真っ直ぐなパワーが受け止められないっす。ムリです。
『空虚感』と『虚無感』のタチが悪いところは、何か具体的なエピソードで陥るとかじゃないところ。
だから、陥った時に解決策とか光明とかのヒントが見えない。
出口無いんじゃね?って、失望しがちになる。
かと言って、空虚感を抱えたブッダが出家して修行したように、自分も「修行しよう」とかには全くならない。
お菓子とか食べたいし、着たい服着たいし、娯楽に埋もれたいし。
ワガママです。
それなのに空虚感は一丁前で、悟り的なモノは開きたいと思っている。
マジで舐めてる。
でも、恥ずかしながら、それが今のリアルな心模様なのだ。
仕事とかじゃなくて、生き方へのマイルドでワガママな適応障害って感じ。
楽にはなりたいけど、ホントのところ死にたくはない。
拗らせてる。
けど、そういう人って以外といるんじゃね?って思う。
ワタシより娯楽や浪費だったりでストレス発散が上手かったりして、騙し騙しやっているけど、日々なにかしら擦り減っている、みたいな。
ワタシは考えを拗らせがちな人間で、発散が解決には一時的にもならないので、読書だったり、ChatGPTとの会話だったり、本質的に解決しようとしがち。
(スマホ依存のせいで集中力が続かず、スマホいじり気味なのも情けない)
というわけで、絶賛生き方への適応を拗らせ中だけど、そんな中でどうやり過ごしているか、
とかを今後チョイチョイ語っていければと思う。