「良く生きる」とは何だろうか。
そもそも「生きる」とは何なのか。
それを考えるにあたり、まずはその対局に位置していそうな「死」に目を向けようと思う。
それを捉えることが「生」と「良く生きる」の解釈、前向きさに辿り着く一助となることを願う。

今、ワタシが思う「死」は「解放」と「自由」だ。

重力からの解放。
他者や社会からの解放。
幸せや苦しみといった痛みからの解放。
絶対的な「無」がそれを可能とする。

「全てがある」などということは実現不可だが、
「全てがない」ということは唯一実現できる。

何もないということは制限も無いということ。
生ある者が初めて手に入れる自由だ。
ワタシはノン宗教であり、ノンスピリチュアルであの世とか輪廻転生なんて
まっぴらだと考えているので、こういった捉え方となる。

物語はそこで終わるから良いのだ。
ようやく全てから解放されるというのに、あの世で続きだとか
生まれ変わって繰り返しだなんてたまったもんじゃない。
そんなのは興ざめだ。
宗教も神も、世の中のルールも、権利や力を持つものが都合よく作ったものであり、真理ではない。

「生き続けること」は生き物の本能であり、目的だ。
そこに意味や意図など無く、ただただ純然たる自然の摂理だ。
「生」を脅かすものにストレスを感じるようにデザインされた身体。
知恵を持った人間は「生」が崩れる「死」を
不安や恐怖の対象と捉えるようになったのかもしれない。

そして、避けられない終わりがあるのに
「生まれた」「生きる」ということに「意味」を求めたりする。

知恵を持った人間は衣食住だけでは欠乏感を抱き、
「より良く生きる」という状態的なことを欲する。
しかし、世界は自分ひとりではない。
誰ひとり自分と同じではない、数えきれない他者が存在する。
さらに、他者のひとりを取っても一様ということはなく、状態によって変容する。
その状態まで他者が理解することは難しく、
自分自身のことですら理解やコントロールできないこともある。

ある一部分では好きで、別の部分では嫌いであり、好ましい時もあればそうでない時もある。
他者に向ける感情はそうであるのに、
他者から自分がどう思われているかは、そう割り切れなかったりする。
頭では分かっていても、というヤツだ。
そこに鈍感でいられるなら軽やかだが、
そうで無いなら重くのしかかるかもしれない。
生ある限り着いて回る問題だ。

生が終わる時、そこからの解放と自由がある。
そう捉えると不安や恐怖の対象では無くなるのではないだろうか。
生き残る側からしたら寂しさや悲しみがあるが、当人としては「お疲れ様」ってことだ。

『来たれ、汝甘き死の時よ』という曲をバッハが似たような感覚で作曲をしている。
300年以上も前の曲だ。
いくら文明が発達しようが、人間の悩みのテーマというのはかわらないのかもしれない。

「死」を不安や恐怖の対象としないなら、
「生」に対する執着も不要なのではないだろうか。
他の生物と同じように、ただ在り、生きればいい。
とは言え、人間は思考が発達しているので、
良い意味で「良く生きる」というスタンスで臨めば良いのでは無いだろうか。

執着も支配も不要。
傷つけられることも傷つくこともある。
生きることでの苦しみは避けられない。
そもそも思い通りになることなど、
自分の手の届く範囲の中のほんのひと欠片。
そういうもの。

そう捉えたうえで、この不完全な世界で「良く生きる」とは何なのか。
やっと、そのスタートに立てる気がする。

次回に続く。