人は独りでは自分がどんなものか分からない。自分以外の誰かがいることで、他者だけでなく自分というものも理解したりする。それは性格や能力など様々。自分を知る・わかるというのは良いことだ。自分らしく生きる第一歩。

 しかし、物事はそう容易くない。他者と自分を見るからこそ感じることがある。優越感や劣等感といった類のもの。相手に無いものが自分にあると誇らしかったり、その逆だと不足感だったり。

 生きていく中で学校や社会を経ていくと、優劣や比較に晒されたりするので、大人の階段を上るほど能動的に、無意識レベルで自然に他者との比較視点を持ってしまいがちだったりするだろう。
 同じ環境にいる他者と比較して、その人の強みが眩しく見えて、それを持っていなかったり至らなかったりする自分を悲観したり、その場での自分の存在価値を感じられなくなってしまったり。

 果たして、その感覚は真っ当なものなのか。

 他者と自分は違う。遺伝子も育ってきた環境も培ってきた経験も違う。先天的にも後天的にも違う。
 強みや能力の違いを縦に捉えると優越感だったり劣等感に繋がりやすいんだと思う。
 縦ではなく横。そのまんま『違い』と捉えるとどうだろう。少し見え方が変わってこないだろうか。

 他者の優れている点が眩しく見えて、自分が低く見えたとする。自分もそれが同じくらい出来ないといけない気がしたとする。
 そんな時はちょっと立ち止まって考えたい。本当にそれは必要なのかって。「やれた方がいい」とか「自分もやれるべき」なんて使命感やべき論的な観点で思っているだけだったりしないだろうか。

 チームなんていうのは全員でバランスの取れたパラメーターになれば良いんじゃないか。そりゃ、同じ強みを同じレベルで持った者が複数いた方がチーム力は強くなるのは否定しない。でも、必然な状況じゃないなら別に自分は同じくらい出来なくても良いんじゃない?
 その人が輝いている部分は、その人自身が大事に思っていて磨いた強みかもしれない。だったら、その人にそこのフィールドは任せて、思う存分に輝かせてあげれば良いんじゃないか。それが自分の価値基準がそこまでじゃないものだったら、べき論だけで習熟して、輝いているその人の活躍の場を減らしたり奪ったりしたら可哀想なくらいだ。

 思い悩むべきは、他者が輝いている部分との比較ではなくて、自分の価値基準で大事にしたいものなんじゃないか。それが見つからないうちは余計に周りが気になったりするだろう。じぶんが大事にしたいものを見つけて、それを研鑽していく。
 じゃあ、それをすでに自分より高いレベルで出来ている人がいたら?結局、優劣?
 そんな時は上下じゃなくて前後の視点。前を進むその背中を追ったり、肩を借りて共闘したら良い。同じスキルでも表現する人が違えば全く同じものではない。同じ歌も歌い手が違えば違ったものになるように。

 人は凸凹だ。自分に軸が無い時は他者の輝いている点ばかりが目立って見えてしまうものだ。ただ、相手も人間。全部輝いているわけじゃなく、ダサい部分もあるはずだ。見えていなくてもそういうもんだと思って、不必要に相手を神格化したり、自分を低く見たりしなくて良いと思う。
 縦じゃなくて横。自分が輝かせたいものを見つけて全うしていく。自分こそがオンリーワン。他者が輝いていない部分だったら尚更。

 違いは優劣じゃなく、ましてや間違いなんかじゃなくバラエティだ。