人生は選択や決断の連続だ、などとよく言ったりする。それは今日着る服や昼ごはんなんて軽いものから進学先や就職先なんて大層なものまで多岐に渡る。
進んだ先がバラ色の日々なら良いが、自分にとってそう感じられなかった場合、過去の選択や決断を悔やんでしまうこともあるだろう。
「自分の決断に責任を持とう」
「自分で決めたんだもんね」
自己責任を正義とする社会で行使される本人以外にとって都合の良い魔法の言葉。便利な言葉。周りの人間はこの言葉を使うことで『主に当人の問題』という檻を自分と相手の間に設けて、助かれられなかったり関わらなかったりする罪悪感をマイルドにして傍観者でいることができる。
ここで言っておきたいのは、こういった人を否定するつもりは無いてってこと。どうせ関わったり助けるなら、そう思えて、そうしたい人がすればいいと思っている。仕方なくとか義務感とかで差し伸べられてもね。モヤモヤするじゃない。生死に関わるようなのっぴきならないときは例外として。
ワタシが考えたいのは、当の本人のスタンスだ。
自己責任だから。自分で決めたことだから。そうやって一度決めたことを呪いにして縛りつける必要は本当にあるのだろうか。
決めたことを完遂する。一貫性を持つ。そういったことは望まれるし、人からも信頼されやすい。確かに社会心理学的にもその通りで、フラフラしているよりビシッとしている方がちゃんとしていそうに見える。
だからどうした。
自己責任なんだと言うなら、「違ったな」と感じたら、自分でケツ持ってやり直せばいい。間違った時点とか挫折した時点がゲームオーバーじゃない。残念ながらゲームオーバーは死ぬ時までお預けなのだ。
更に言うと、やり直せるんだから決断を重く考え過ぎる必要もあんまり無いんじゃないか思ったりもする。決断できずにいつまでも動けないくらいなら、大体のことはとりあえず決めてしまえばどうだろうか。
もちろん失敗したくないのは当たり前の感情だけど、どんなに気を張っても何かしらどこかしらで失敗してしまうことはあるだろう。残念ながらそういうもんだ。だから、その瞬間瞬間の成功と失敗に囚われすぎても神経擦り減るハードモードのゲームじゃないか。長期的に帳尻が合うくらいの緩い捉え方くらいがちょうどいい。
決断を石に彫って誓ったわけじゃない。
「一度でも選択を間違えたら即死亡」という天からの命題を与えられているわけでもない。
決断すること、一度決めたことに囚われ過ぎず、クモみたいに風に乗って、形を変えて流れていくのは気持ちいいと思う。どうだろうか。