他人から承認されたり、評価されたりすることは正直嬉しい。人はひとりでは生きていけず、家庭だったり、学校や会社だったり、コミュニティだったり、何かしらの接点を持っているから。
自分の所属する環境で認められることは、「ここに居て良い」と認められているようで安心感を持つことができる。その逆だと自身の存在が否定されたようで苦しさを伴ったりするだろう。
ちょっと記憶を辿れば、これまで悲喜交々のシーンを脳裏に浮かべることは容易い。

 自分以外の誰かの役に立って賞賛される。それは喜ばしいことであり、それをモチベに頑張れる人も少なくないだろう。他人を満たした結果の賞賛、承認、評価は、それ自体は健全な快楽だ。
 だからこそ気をつけなきゃいけないとも思う。健全な快楽という結果を求めるためのプロセスが健全かということを。

 一度認められれば、ずっと認められていたいと思いがちだろうし、もっと認めてもらいたくもなるかもしれない。自分でも気づかないうちに賞賛、承認、評価を得るという結果が目的となったりすると、見落とすものも出てくるかもしれない。その中でも重要だと思うのが、自分を見落としてしまうことだ。

 他人のために動いている時、自分の気持ちはどうなっているだろうか。削っていないだろうか。無理してないだろうか。やりたくないことやっていないだろうか。そこに目を瞑ってしまっていないだろうか。もしそうなら、それは血を吐きながら続けるマラソンのようなもので、いつかは倒れる。
 自分の気持ちにフタをし続けて、いつか「誰かのため」が「誰かのせい」になってしまわないだろうか。折れてしまったら、自分も周りも幸せに出来なくなるかもしれない。

 自分の気持ちにも耳を傾けたい。自分の気持ちも健全にやれているのかどうか。
 そんなこと言っていられる状況ではないかもしれない。それでも、自分の気持ちに耳を傾けて、それを認識してあげるくらいはバチは当たらないはずだ。

 他人の評価と自分の評価のどっちを取るのか。個人的意見としては、欲張ってどっちも取れば良いと思っている。だからこそバランスが大事だと思う。
 たとえそれが、100人を幸せに出来て評価してもらえるものだとしても、自分が不幸ならいつかダメになってしまうかもしれない。だったら、手の届く5人くらいでも幸せに出来て評価もしてもらえて、自分も幸せであり続けられる方が良いんじゃないか、って今のワタシは思う。

 他人から評価されても、自分が納得できないことはやらない選択肢だってちゃんとあっていい。他人も大事にして良いし、それ以上に自分も大事にして良いと思う。
 誰かだけじゃなく自分にとっても美しい日、バラ色の日々なのが理想。

 それぞれに頑張って。