晴天の中、横になれるほどのベンチに仰向けになり、真上にある太陽の日差しを真正面から受け止める。心地良い音楽が流れているイヤホンを外し、目を閉じる。
赤く、熱い。閉じた瞼に感じる日差し。赤かった閉じた視界が時折暗くなる。太陽に雲が掛かったからだろう。
雲が風向きに流れていく。その風が身体を通っていく。頬に当たる風が涼しく気持ち良い。風に揺らぐ木々の葉の音。木々を飛び交う鳥の声。
自分自身の感覚、周りの環境に意識を配る。そうすると色々な“在るもの”に気づく。意識を配ることで初めて、自分にとっての確かな存在となることに気づく。気づこうが気づかなかろうが、確かにそこに在るのに。気づいていない時は自分にとって無いのと同じ。なんなら無いという認識すらなかったりする。
人は意識を向けたものが見え、聞こえ、感じる。これまで、こういった心地良く感じるものにほとんど意識が向いていなかったと感じる。不快なほどの暑さ、寒さなどのネガティブな程の刺激を除いて。
特にここ最近は、如何にストレスなことに意識を向けていたのだと思う。安心や安全、余裕が無かったからだろうか。自分が豊に感じるものより、ストレスに感じるものをなんとかしたいという心情だったのか。意識すればするほどストレスというジレンマなのに。
もちろん無いものはある。辛いことや嫌なこともある。気を抜くと、人は不足に目が行きがちだ。だから意識して、すでに“在る”心地良かったり、安らぎになるようなもの、自分にとって価値となるものに気づきに行って味わうというのはかなり大事なんだと実感した。
意識するかしないか、気づくか気づかないか。自分にとっての価値は、思っている以上にすでに在るのかもしれない。