劇場で予告編を観た時から気になっていた『ルックバック』という映画を観た。『チェンソーマン』という漫画を描いている作者の短編作品らしい。ちなみにワタシは『チェンソーマン』も『ルックバック』も未読。
 何が心に引っかかったのか。絵のタッチから何か力強い想いを感じたのだろうか。公開を迎え、未だ鑑賞するか決めあぐねていたので、どのような話なのかネットで調べた。そして、ストーリーの核心に触れてしまった。需要以上の情報供給にぶつかるというのはネットの功罪といったところ。予告編で感じていた印象と違う話だった。
 ただ、原作読者が映画に多大なる期待を寄せていることがワタシの背中を押すこととなった。衝撃な展開を知っていても尚観たい話なのだ。つまり、ストーリーの核心部分の知識は、鑑賞の良し悪しを左右しないということだ。
 良い作品というのは内容を知っていても何度でも観たくなるもの。そこには力をくれる何かがあるのだ。そして、ワタシは繰り返し観たくなる、力をくれる作品が好きだ。

 結論。ワタシは途中とクライマックスで涙が止まらなかった。他者の鑑賞の邪魔にならないよう、鼻をすすりたいのを我慢しながらスクリーンと向かい合っていた。

 シアターを出て、一直線に売店へ行きパンフレットを購入。その足で書店にも向かい原作本を購入した。これを執筆しているのは帰り道のスタバなので、現時点ではどちらも未読。
 ストーリー紹介は割愛する。気になったことは簡単に調べられる時代だ。そして、ここでは鑑賞してワタシが感じている想いを綴る。感想や解釈などという無粋なものではなく、あくまでワタシの願いのような想いだ。

 『ルックバック』という言葉は「振り返る」という意味。人生の中では過去を振り返ることが度々ある。過去を懐かしむための振り返りではなく、何かに行き詰まったり、苦しい状況に立たされた時など振り返りは、その原点に意味を求めたり「あの時こうしていれば」「あの時こうしていなければ」などとifの世界線に無いものねだりをするときもあるだろう。
 あれが良かったのか悪かったのか。いろいろと思うところはあるけれど、その時はその時で、瞬間瞬間の思いでの決断と行動があったはずだ。意志の強さや覚悟の程はさておき。
 その時のことを悪かったこととしてしまうのは良いのか悪いのか。特に、それが自分のためだったり、誰かのための決断や行動だったりした場合。それがその時の自分や誰かにとって、瞬間でも救いとなっていたなら、それは良かったと思いたい。少なくとも自責の念で潰れてしまうような意味づけにはしたくない。そこには価値があったはずだから。

 辛い時、なぜ振り返るのか。先のことに思いを馳せるならまだしも、なぜ変わらない過去にわざわざ思いを馳せるのか。その根っこは、救いを求めたい、ということではないかと思う。諦めたり、潰れたりする理由を見つけたいからではない気がする。正直、過去に救いの意味づけをしても、現状が変わるわけではない。ただ自分を正当化するだけかもしれないけど、それが立ち上がる力になるなら、その先へ歩みを進める力になるなら、それはそれで良いのではないか、とワタシは思う。

 今に対して昔を振り返る時、「なぜ振り返るのか」と自分の気持ちに耳を傾けることで、少なくとも自分は自分の味方でいてやれると思う。
 後悔を全く感じない人生なんて幻想に近い。いつも幸せという人生も難しい。それでも、時には立ち止まって振り返ったりもしながら、自分の足で立って歩き続けられたらいい。